理性の判断VS感性の判断、どちらが正しいの?

 翌日、「神の島」大神島へ行こうということになり、宿泊していたゲストハウスで働いていた女の子の運転で、私たち家族3人を含む6人で出かけました。

 前日は、「宇宙のエネルギースポット」で、翌日は「神の島」ですよ!「神の島」!うははは、もう、レッツちゅーちゅー餓鬼ちゃんズ怖いものなしですね。

 でも、今思えば、私たちもレンタカーしてたのに、どうして、その女の子の運転する車に同乗したんでしょうか。私は、「せっかくいっしょに乗りましょう」という申し出を断るのもな〜という気持ちでした。好意には弱いんです、私たち。

 一人で断る「勇気」もなく、「どうする?同乗する?」と、ふくちゃんに相談しようとしてたけれど、ふくちゃんは、ゲストハウスの中にいて相談もできず、そのまま、なだれこむように一台のゲストハウスの車で行くことになってしまいました。(でも、どうして、ふくちゃんは、その時いなかったのかな。。何してたの、ふくちゃん?)
 
 その後、悲惨な交通事故となるわけですが。さーて、ここで、それが予感できたかどうか?胸騒ぎはしたのかどうか?その予感で、事故は避けられたのかどうか。同乗したことは、結果としてよかったのか、悪かったのか。。

 ふくちゃんは、同乗したくなかったらしいです。ただ、それは、強烈な感情ではなく、「じわーー」とそういう気持ちがあったという感じだったらしいです。この「じわーといやな感じ」。

 人によって感じ方は、違うでしょうが、ふくちゃんは、一生忘れないでしょう。人生を左右するような出来事の前触れが、ほんとにかすかな「じわーとしたいやな感じ」です。当時の感性での話ではありますが。

 私と言えば、性格のよさそうな女の子が、好意でそう言ってくれてるのだし、悪い申し出ではないと考えていました。しかし、「うんうん、いっしょに行こう!いえーい!!!」という「のり」でもなかった。

 左脳で右脳をがんじがらめにしていた私の感性では、「のりが悪い」が、人生を左右するような出来事の前触れですね。悲惨な感性です。。

 ただ、いつもだいたい一人で物事決めるのに、なぜか、その時は、ふくちゃんと相談して決めないといけないとは思ってました。ふくちゃんの感性の判断を仰ぎたかったのでしょうか。

 左脳的には、レッツゴー、右脳的には、「んんんーーーどうしよう」という感じですね。この「んんんーーーどうしよう」という感性の判断を理性の判断が押しとどめてしまいました。わたしが、そのころ普段やっていることでした。

 しかし、この左脳での判断が時としていかに間違っていることか。家族や自分の命にかかわる重要な判断であったのに、なんと無力で役立たずであったことか。。私は、この後も、同様の間違いを犯してしまいます。それは、また、別の機会に。

 提案してくれた女の子ことは、いい子でしたし、道案内役の他の2人も、1人は、少し癖はあったものの、いい感じの女の子達でした。

 ただ、その道案内役の2人の女の子も、道に不慣れで、無料配布の宮古島のガイドマップを見てました。運転手の女の子は、出発の時間が、少し遅れ気味だったのか、少し急いでいるモード。

 道案内役の一人が、「こっちじゃない〜」という道へ進む。「ええ?そっちは、ちがうっぽいな。。」と思っていたが、こっちも同じくらい不慣れなので、言い出せず。で、わたしが、無意識に唐突にある行動をします。それは、息子を守るための大切な行動でした。
 
 一番後部座席というか、荷物置き場で1人ご満悦だった当時小3の息子を、私は、急に自分の膝の上にすわらせたのです。

 たまの旅行の時こそ、子供のしたいようにさせたい、息子の自由にさせたいというのが私の考えでした。例えば、海なんかですこし危なっかしいことでも、近くでただ見ていて手を出さず、内心はらはらしながらやらせていました。

 しかし、その時、私は、無意識に息子の自由を奪う「ひざにのせる」という行動に出ました。別に胸騒ぎがあったわけでもありません。なぜか、そうしました。本当に、無意識にそうしてました。何も考えずに、そうしてました。

 後で、振り返ると、そうすることはとても大切なことだったんです。

 もし、そうしていなければ、息子はいまごろどうなっていたことか。ちなみに、事故にあって、車のドアというドアは、ロックしてあったにもかかわらず、全開してましたから、息子だけとんでもないことになっていたかもしれません。

 この無意識の行為。ただ、「何気なく」そうしたことが良い結果を導くことになったのでした。

 今では、それが「天からのメッセージ」を受けての行為であることは理解できています。私たちが、「守護」されていたということです。私は、それまでの人生で何度かそういった経験をしています。これもまた機会があれば。

 わたしが、息子をひざの上にのせることは、周囲から見て何も違和感のないことです。非難されるべきことでもありません。だれにも迷惑をかけません。だから、私は、「導かれるがままに」そうすることができました。

 でも、もし、あなたががたとえ交通事故にまきこまれる予感がしていたとしても、その日学校や会社を休み、あるいは、約束をたがえて、その事故を避けることができますか?たとえ、避けることができたとして、周囲の人たちの理解を得られるでしょうか?!

 レースで亡くなったアイルトン・セナは、亡くなる当日の出かける前に「今日のレースは、行きたくないんだ。。」と周囲にもらしていたそうです。

 私たちは、たとえ、そういう予感があったとしても、理性的に考えて、それを無視しようとします。理性が感性をがんじがらめにします。左脳が右脳を従わせようとします。たとえ、それがその人の生命にかかわることでさえ。

 私たちは、「考えること」を優先させる世の中に住んでいるからです。「感じること」は、いつのまにか、特定の分野(たとえば芸術)に限られ、日常生活では「とるにたりないこと」とされてしまいました。「気のせい」とかいう形で。

 たとえ、「感じること」ができたとしても、それを活用できないのなら、「感じること」ができる能力は、どんどん衰えていってしまうのは当然のなりゆきでしょう。

 みんなが素朴な生活をしていた時に、全ての人が持っていた「ヒーリングの能力」。自分や他人をいやすことのできる能力もこのようにして、理性の分野=科学の発達とともに、どんどん衰えていったのでしょう。

 そして、また、再び、「ヒーリング」が、脚光を浴びています。

 理性の分野のいきづまりが、感性の分野を求めて期待しているのでしょう。「感性の分野」にある「ヒーリング」を理性的に科学的に説明することは、至難の業でしょうが、私達は、それをしようと思っています。

 私たちにとってオーラ写真も実はそのための道具なのです。

 「とりあえず実体験してください」だけでは、氏素性の知れない人から、お金を払って、よくわからないサービスを受けたいとは思わないでしょう。

 これを読んでくださっている方が、ヒーリングを受けよう!という決断をしていただくために、そして、その受け皿を作っていただくために、そして、何よりもまず、あなたがどんな人間からヒーリングを受け取ろうとしているのかをわかっていただくために。。。この日記を書いています。

 科学という理性の分野とヒーリングという感性の分野。ともに、補い合えればいいですね。

 医師の中には、「目の前にいる病んだ人を治す」原点に立ち戻り、ヒーリングの伝授(アチューメント)を受け、ヒーリングを活用している人もいるそうです。病院経営の中の流れ作業や歯車としての作業ではなく、これからの「愛ある医療」に期待したいですね。










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